商店街概要

400年以上の歴史のある材木町

 南部氏の城下の整備とともに材木町も発展を遂げてきた。秋田、鹿角街道の入口に御番所が置かれた。材木町は、岩手町と呼ばれたりしたが、改めて文化年間(1804~1818)に材木町とされ、久慈町は茅町になった。天明8年(1788)、久慈町は50戸、434人、材木町は52戸、465人の記録がある。
 材木町の町名の由来は、対岸の木伏に春木場(貯木場)があり、材木商を中心として栄えていたからのようだ。江戸時代は鹿角街道、秋田街道(雫石街道)、沢内街道の北の玄関口として賑わい、材木町は近江商人、旧茅町では久慈、岩手町の商人が活躍。江戸後期には近江屋、恵比寿屋、宮田、豊島屋などの大店が建ち並び道幅は4間5尺。

・1686年、岩手山大噴火で城下にも灰が降った。
・1691年に森岡を盛岡とした。
・1719年、岩手山中腹から溶岩流(焼走り)。
・1756年の大飢饉、永祥院に救護小屋。
・1799年、長町に消防組が置かれた。

明治34年 宮重呉服店 当時、盛岡は洪水や大火に何度も襲われ、藩では飢饉も多く、酷い時には餓死者が4万人を数えることもあった。北上川に架かる夕顔瀬橋は、洪水のたびに流失し、1765年(明和2年)に川の中央に中島を築いて橋桁を高くした。橋の袂には惣門と御番所があった。
 明治時代に入り廃藩置県後の盛岡は、岩手県の県都として発展し、材木町も賑わった。北上川西の青山町に工兵隊と騎兵旅団が置かれ、多くの軍関係者も訪れたようだ。
 大正時代には、童話作家で著名な宮沢賢治の「注文の多い料理店」が現在の光原社で出版され、材木町に来ては楽器店、本屋などに立ち寄っていた。

昭和の材木町

昭和33年 旧茅町 昭和になると材木町は、米屋、魚屋、雑貨から家具まで暮らしに必要な物が揃う商店街となり賑わいをみせていた。
 昭和30年代に入ると内丸官公庁団地や市街地の道路整備が行われ、盛岡の人口は昭和30年の14万人から45年には、20万人に急増。45年の岩手国体に向け、さらに整備が進んだ。昭和30年頃までは自動車の登録台数は2千台だったが40年に1万4千台、60年には8万台を超えた。
昭和39年、旧材木町と茅町は合併し材木町となり商店街も合同し、41年には街の再開発を目的に商店街振興組合として盛岡で初の法人化。
 昭和54年に仙台~盛岡間の東北自動車道が完成。東北新幹線も開通し高速交通時代が到来。それとともに緑屋、ダイエー、エンドーチェーンなどが盛岡に進出。モータリゼーションの進展とともに郊外型のショッピングセンター、ロードサイド店が賑わうようになり、材木町はますます人通りが少なくなった。
 昭和43年に四十四田ダムの完成により、松尾鉱山の影響で盛岡を流れる北上川が茶褐色だったが清流に戻った。

材木町の衰退と「よ市」の開催や道路拡幅整備

材木町道路完成後 平成5〜7年 昭和30年代の後期、岩手国体開催のため市街地の道路が整備され、国道が現在の中央通りに移った。橋場線(田沢湖線)も開通し、しだいに人は盛岡駅に集まり、駅から大通り方面へと人の流れが変わっていった。
 昭和の後半になると、車で近郊のショッピングセンターなどに買い物に行くスタイルが主流になった。材木町は人通りも少なくなり、歴史のある店も離れていく中で危機感を抱いた商店街の青年部が町の活性化の柱として「よ市」を発案した。
 また、昭和57年から官民共同で材木町の道路の拡張整備が始まり、平成5年にコミュニティ道路として完成。歩道は御影石で整備され、街の姿が一変し、広くなった通りでの「よ市」は、お客さんも買い物がしやすく、歩きやすくなった。
宮沢賢治の世界をテーマにしたオブジェ(座)を6カ所に設置。「いーはとーぶアベニュー・材木町」と呼ぶようになった。また、北上川の護岸には遊歩道が設置された。
よ市 環境整備の基本構想のテーマは「親しみと対話のある街」、「城下町の風情を生かした和風感のある街づくり」、「ゆっくり、楽しく買い物ができる街づくり」などが掲げられていた。
 平成5年に当時のホテル東日本で開催された材木町商店街環境整備事業完成記念式典で、鈴木正一理事長が式辞で「盛岡らしさを残し親しみと対話のある街。ビルも混在するが面白みがある街並で、全国にも例のないユニークなもの。」と述べている。材木町商店街、材木町と茅町の町内会が一体となり、国、県、市や関係団体との強い連携のもとに現在の通りが完成した。
 今は、高層マンションなどが建ち並ぶが、モダンでどこか懐かしさが漂う街で、「いーはとーぶアベニュー」という愛称がよく似合う。

詳しくは材木町商店街の歴史と「よ市」の歩みをまとめたPDFを御覧ください。

材木町の歴史と「よ市」のあゆみ